今から300年余り前,延宝元年(1673)草津浦小西屋五郎八が眞竹で,ひび建法で,大量に1年生かき採苗法を考え出した。
そして販売方法が奇想天外カキの売り船を考えたのであった。
大阪表に集中すべきことを察した。
将来の発展を胸に草津浦を指導した河面仁右ェ門が、1688年かき仲間株組織を結成しカキ漁場の免許を取得し,同時に大阪でのかき船営業許可も実現したのであった。
宝永5年(1708)大阪大火の時,高麗橋西詰にあった高札を死守するため,高札をかき船に積み込み火災の難をまぬかれた功績により大阪表堀川筋一円のかき船営業特権を取得し大阪の営業を長年続ける事ができ,瀬戸内海沿岸九州北陸路にかき船営業を発展して、これにより広島かきは天下に名を刻んだのであります。
今日の広島かきの名声の基礎は「かき船」によって造られたと云っても過言では無いのであります。
明治17年には京都竹屋橋西詰めに『かき船」営業許可をもらい、舜蔵の幼名春次郎の「春」をとって『かき春』の名で開業しまた。
松本八右衛門の大阪橋際のかき船と他1店、松本柳右衛門の久宝寺橋西詰のかき船を集約して本町橋東詰めに「かき春 大阪店」を開店。
明治33年には 宮島口に最新の牡蠣作業場を建築し移転、大阪河川における「かき船」の営業は戦時統制合により廃業に追い込まれ200数十年の歴史をもつ『草津かき船』は大正4年に京都鴨川から現在の疎水に移転営業していた『かき春』ただ1軒になりました。
この京都「かき春」には広島最後の藩主浅野長勲候が訪れ、店頭にいた「かき打ち娘」を宴席に並ばせ、広島弁を所望して『久しぶりに広島に帰ったような気になった』と言い、『牡蛎の詩』の掛け軸を寄贈された曰くのある老舗でした。
当店の伯父が平成13年までこの「かき春」を経営していましたが後継者問題で閉店し「草津かき船」1688年から300年以上に及ぶ歴史は幕を閉じました。
が 最後の経営者である伯父から「俊介 なんとか復活せよ」と この看板を託されまた。
江戸後期から 表に掛けられていた看板で現在当店入口に掛けられています。